独自のスタイルで人々を魅了し続ける、77歳の現役デザイナー「島田順子」について
千葉県館山市出身。6人姉妹の末っ子として生まれる
島田順子は6人姉妹の末っ子として館山市浜須賀に生まれました。館山の生家は商家(豆腐商)で、実は両親がそれぞれ二度の離婚歴があり、その結果、6番目の娘として誕生しています。
杉野学園ドレスメーカー女学院を卒業
高校卒業後は絵の学校への進学を考えましたが「何か手に職を」と母に勧められ、洋裁を学ぶ東京の杉野学園ドレスメーカー女学院へ入学。しかし授業に熱が入らずフランス映画ばかり見る生活振りでした。結局、進む道が定まらず、好きなものにこだわった順子の学生時代は、その後の人生の糧を醸成する期間だったのかも知れません。またそれは開放的な両親が大きな心で見守ってくれたことが大きなファクターだったと思われます。1963年順子は杉野学園ドレスメーカー女学院デザイナー科を卒業します。
フランス映画に憧れ、1966年にパリに渡る
1966年、順子はフランスに渡りますが、この時はまだファッションデザイナーを目指していたわけではありませんでした。渡仏の理由は「パリに行きたい!」その一心だったと言います。
運命の転機が訪れる
1968年、カフェで声をかけられたことをきっかけに、順子に幸運が舞い降ります。声をかけた男性がたまたまパリの人気百貨店「プランタン」のデザインチーフのような立場にあった「クロエル・ブリントン」という人と知り合いで、彼との面接の機会を得ます。その結果、研究室に勤める幸運を射止めます。当時の順子はまだまだ未熟な存在だったと思われますが「順子の情熱」と「ブリントン氏の眼力」が結びつき、順子の人生の起点を切り開くことになります。
デザイナーとして腕を磨く
プランタンでキャリアを積んだ順子は1970年になるとデザイナー集団「マフィア」に参加し、デザイナーとして腕を磨きます。さらに1975年になるとフランスでも大手のアパレルメーカー「ジャン・キャシャレル」に入社し、チーフデザイナーとして腕をふるいます。
「JUNKO SHIMADA DESIGN STUDIO」を設立
ファッションの最前線フランスで、こうした経験を積み上げた順子は1981年、ついに独立しパリで「JUNKO SHIMADA DESIGN STUDIO」を設立。1988年には東京に「JUNKO SHIMADA INTERNATIONAL」を設立します。なお、1981年のSTUDIO設立と時を同じくして、パリコレにデビューを果たしており、現在もパリコレ・東京コレクションに連続参加し、毎年新作を発表し続けています。
毎年欠かさずコレクション発表する背景にはいくつかの理由があります。コレクション参加を一度でも取りやめると、様々な憶測が飛び交います。経営難、アイデアの枯渇、不人気等々。しかし、コレクションに連続参加している最大の要因は順子の「絶えざる情熱」にほかなりません。最近のインタビューに順子はこのようにコメントしています。
『確かにコレクションの製作・準備は大変な作業ですが、コレクションのたびにクリエーターたちが集まり、世界が注目しています。その場所で私もメッセージを発信したいと思うのです。30年間コレクションを発表し続けていますが、毎回終わるときに何か悔いるところがあるのです。それで「次回はもっと頑張るぞ」とやっていたら、気付くとこんなに時間が経っていたという感じです。』
2018年2月27日から3月7日まで2018/2019年秋冬パリコレクションが開催されましたが、順子がデザインする「JUNKO SHIMADA」は3月6日、ジャングルをイメージした2018/2019年秋冬コレクションを発表しました。なお2012年、島田順子はフランス共和国芸術文化勲章(シュバリエ)を受賞しています。